承認欲求の奴隷
アドラー心理学をもとに日本人によって書かれた本『嫌われる勇気』はご存じでしょうか?
公式⇒http://book.diamond.ne.jp/kirawareruyuki/
そこで述べられているのは簡潔に言うと「承認欲求は良くない!」と言ったことです。
人間は褒められると、さらに褒めてほしい、認められたいという承認欲求が掻き立てられて『承認欲求の奴隷』を作りだしてしまうのです。
承認欲求の個人差
承認欲求が0の人って果たしているのでしょうか?
何か研究に没頭して、褒められることなんてどうでもいいと思っている研究者や学者さんは世の中にはいるかもしれませんね。
どちらかと言うといつも服装を気にしたり、SNSで自撮りを投稿している人の方が多い気がします。
中には承認欲求が0とは言わないまでも、あまり承認欲求に捕らわれない生き方をしているような人もいます。
承認欲求にも個人差があるようですね。
なぜか承認欲求少なめな私
私も承認欲求が0とまでは言いませんが比較的少なめな気がしています。
小さいころからずっとそうだったわけではありません。
しかし、承認欲求が引き起こす過ちに気づいてからは「承認欲求なんて必要ない」と考えるようになりました。
圧倒的な差の前で承認欲求は無意味
これは私の承認欲求に対する根本的な考え方です。
圧倒的な差の前では承認欲求は無意味になるんです。
例えば、成人男性が幼稚園児に50m走で勝って「足が速いね。」なんて言われて嬉しいでしょうか?
基本的には勝って当たり前の状況を褒められても承認欲求は駆り立てられませんよね?
本当に褒めてほしいと思う分野、例えば私なら筋肉なんかがそれに当てはまりますが、私の筋肉を褒めてくれる人は基本的には私より努力を怠っている人、もしくは努力していない人なわけですから褒められて当たり前です。
自分が努力を続ける限りその差はどんどん開いていきますから、いつかは圧倒的な差になって承認欲求は薄れていくと思います。
だったら初めから承認欲求なんて必要ないんじゃないか?と考えているわけです。
承認欲求じゃ努力は続かない
承認欲求も必要説でよく言われるのは「認められたいという気持ちで頑張れる。」ということだと思います。
確かに、モテるために筋トレを始める、モテるためにお金持ちになりたいというのも悪くないです。
何かアクションを始めるきっかけとしては十分だと思います。
しかしです。
褒めてもらうことを目的に始めたことは、褒めてもらうことさえ諦めればいつでもやめることが出来しまうんです。
いくら承認欲求が強い人でも褒められるために毎日努力することは相当困難だからです。
「筋トレが好きで自分が理想とする体に成りたい!」「お金持ちになって家計を支えたい、自由に暮らしたい。」と考えている人にかなうわけがないんです・・・。
こうして承認欲求の奴隷は作られる。
承認欲求では努力が続かず、圧倒的な差も生まれない。
そうなると努力せずに承認欲求を満たそうとするようになるんですね・・・。
それはブランドものばかり身に着けたり、言われた仕事ばかりこなしたりといった具合です。
そんな承認欲求の満たし方では「承認欲求が必要ない」と言われるのも仕方がないのかもしれません。
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